ザコシも食べる食通のバク

今日は午後休を取った。本当は全休を取り、金曜日を2連休でサンドイッチして圧をかけることで金曜が休日に転じることを期待していたのだが、仕事が入ったため午後休となった。

従って、圧力から解放された金曜日は平日のままである。

 

東京で暮らす上で平日が休みということは何にも変え難い喜びだ。

人が少なく、行きたいところに行きやすい。

そこで僕は近所のサウナに行くことにした。

いつもはミチミチに漢達がギッチリ詰められているサウナだが、平日昼なら快適なのではないかという算段だ。

 

平日のサウナはやや混んでいるくらいで、そこそこ快適に入ることができた。

西尾流のサウナの入り方を紹介しよう。何かしら思考をして、思考能力が落ちてきたら水風呂に入るという入り方だ。時計がないサウナでも整えるおすすめの方法だ。

今日は夢を語る人について考えていたのだが、最終的に「ハリウッドザコシショウの面白さに説明がつけられるようになった」というトンデモ体験をしたのでそれを記述してみようと思う。

 

僕は今年で27歳になるのだが、この年齢になってくると色んな夢のステータスを持っている人がいる。夢を諦めた人、夢を見つけた人、夢に向かって歩を進めている人、夢と現実の折衷案を見つけて付き合っている人…その模様は様々だ。

人の夢の話を聞くのが好きで、色々話を聞いているのだが、正直めちゃくちゃ面白い人と、大丈夫かこれ?となる人がいる。

誤解を招きたくないが、前提として人の夢をバカにすることはないし、したくもない。

しかし、大丈夫かこれ?となる時はある。何故そんなことが起こるのかとサウナの中段に腰を落ち着かせながら考えたのであった。

 

結論から言うと、フィクションとノンフィクションでは面白いと感じるポイントが異なるから、である。

面白い夢の語り方をする人は総じてノンフィクションである。地に足がついていて、地道に試行錯誤を積み重ねるからこそ、自分では知り得ない世界の一端を垣間見ることができる。

その人の価値観や、業界の現実、固有性の高い問題とその対処法…自分の生活範囲の外で起きていることが知られるのでとても興味深い。

ノンフィクションとして、その人の固有の物語として語られる。

 

一方で大丈夫かこれ?となる夢物語は地に足がついておらず、一貫性がないため空想として捉えられる。

空想は土俵がフィクションとなるため、フォーマットが限定されていない中でいかに固有性を出していくかが面白さの鍵となる。

フィクションの強さはその自由さにあるが、地に足がついていない夢物語は土俵はフィクションであるのに、語られている内容は現実に即した物に限定されるため面白さと言う観点では物足りなさを感じてしまう。

 

ここまででフィクションとノンフィクションの面白さの違いについて考えたところで、夢物語とは別の世界にこの原理が働いていないか考えると、お笑いの中でもとりわけモノマネというジャンルに当てはまりそうだ。

モノマネは基本的にノンフィクションの土俵である。現実に在るものに即してオリジナリティを出していくコンテンツであり、現実に在る物が基準となった上でそのギャップで笑いが起きる。固有性の高いノンフィクションの芸である。

だが、ノンフィクションの土俵に立っていないモノマネ芸人が世の中にはいる。そう、ハリウッドザコシショウである。

彼のネタは一応現実に在るものを基準としてはいるものの、フィクション/ノンフィクションのグラデーションを考慮するとフィクションの要素が圧倒的に強い。

彼のネタを観たことがない人は是非観てほしい。鉄板ネタの「福山雅治モノマネ」はモノマネ観が180度変わる。

 

現実に在るもののエッセンスを過度に希釈し、0.1%のエッセンスをもとに自由に発想しているモノマネはフィクションそのものである。

ハリウッドザコシショウの面白さはズバリ、モノマネというコンテンツの土俵をノンフィクションからフィクションの世界へ持ち込み、新しいコンテンツとして確立している点にある。

 

ハリウッドザコシショウの面白さが自分なりに言語化でき、サウナの整いとかけ合わさって極上の快感を得ることができた。

 

ここまで書いておいてなんだが、引き継ぎ人々の夢の話はこれからもたくさん聞きたい。「面白さ」という切り口で書いたため、「こいつに夢の話をすると値踏みされるのではないか」と発想してしまうのは仕方ないが、「大丈夫かこれ?」となる夢も僕は好きである。その違和感を言語化することで新しい視点が出てきたり、どちらにせよ面白い話であるのには変わらないからだ。

というか、僕自身が「大丈夫かこれ?」という夢を叶えてきた自負もあるため、どんな夢であれ聞いて、語り合いたい。

 

バクは水辺を好むらしい。サウナで人々の夢を摂取して陶酔する僕はバクの世界で生きていけるかもしれない。

懈い青年、檸檬、そしてディビットさん

先日、本当に何もしたくない日が訪れた。

「やりたいことあるんだけど、なんだかやる気が起きない。」とかではなく、「何もやりたくない。」のだ。

意識だけは高いので、普段空き時間は勉強したり読書したりするのだが、それすらしたくない。「いやいや、何もやりたくないとはいえ、やり出したらスイッチ入るだろう。」そう思って最近買った本を開いてみるのだけれど、文字が目から入って頭の後ろあたりからすり抜けていく。この行為は本当に意味がないと感じたので、やめた。

なんだか眠たくなってきたので、寝てみた。しかし僕は昼寝でも夜寝でも基本的に眠りが浅いというか、割と短時間で目覚めてしまうので、1時間程度しか眠れなかった。

そんなこんなで飯も食わずに夜が来てしまった。外暗〜い。ぽけ〜。って感じでいたが、飯は食わないと筋肉が落ちてしまうので、スーパーに行くことにした。立ち上がるのも億劫だったが、このままだと10年くらいぽけ〜っとしてしまいそうだし、10年間もぽけ〜っとするのは流石に嫌なので、立って超スローな足取りでスーパーへ向かった。

電動カートに乗りたいと思った。まぁ、小さい時から電動カートに乗ってみたい気持ちはあるんだけども。

 

スーパーに到着。今日は何もしたくないから、なんか適当に出来合いのものを買って帰ろうとした僕の目にあるものが飛び込んできた。

レモンである。

なんだかよくわからないが、レモンを買ってみたいという衝動に駆られた。別に食いたいわけでもないが、あの可愛らしいフォルムといい、ビビッドだがどことなく恐ろしい雰囲気を出しているあの色合いといい、バーテン以外で誰が買うねんってポジションだったり...こうやって魅力を挙げようとするとなんだか違うのだが、それらの根幹にあるようなうまく言い表せない魅力に惹かれてしまって、気付いたらカゴに入れていた。

そして帰宅途中、「これ梶井基次郎やん」と恐ろしくなってしまった。

心に得体の知れない不吉な塊を持っている人はレモンを買ってしまうのだろうか。

僕も本を積み上げてレモンをその上に乗せてみたが、特に何も感じない。レモンを買うところまでは一緒だが、用途や感じ方は人それぞれのようだ。みんな違ってみんないい。にんげんっていいな。

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これが買ったレモンだ。いかにもって感じの形をしている。

そして生産者:ディビットさんがめっちゃ気になる。ディビッ"ド"ではないのか。

これをみた時、別の人もいるのか?と思ってガチャガチャを楽しむ感覚で他のレモンをみたが、全員ディビットさんだった。ディビットさんの独占市場が実現されており、なかなか壮観だった。

 

さて、衝動に駆られて購入したので、食べ方とか何にも考えていない。ということで、シンプルにくし切りにして、そのままかじった。

とても酸っぱかった。

だが無心で食べた。食べて食べて、食べまくった。

唾液が止まらない。全身の毛穴からレモン汁が出てきそうな気がする。

それでも食べた。

全部食べた。

食べ終わった後、流れ出る唾液、汗、舌に残る酸味、湧き出るディビットさんへの感謝。

生きている心地がした。

得体の知れない不吉な塊を抱え、何もしたくないと感じて夜までぽけ〜っとしていた僕が、ディビットさんのレモンに救われた。

 

ありがとうディビットさん。

変なのは変

「お前は変なやつだ」

 

僕が自己を自覚し始めてから今日までずっと言われていることだ。

 

別にこう言われて嫌な思いをしたことはない。

 

ただ、違和感はある。

 

言うほど変ではないのだ。

 

何か表立ってすごい活動してるわけでもないし、何かを成し遂げているわけでもない。

ただの大学生だ。一留一休してるけど、それくらいなら別に普通だと思う。

 

そこでなんとなく思ったことがある。

多分、人間みんな変。

人間が何かを変だと思うときはなんらかの尺度を持って変かそうでないかを決める。

人間に対して「こいつ変」って思うときは常識に照らし合わせて変かそうでないかを決めることが多いと思う。

僕は若干常識がないので、みんなに変だと思われがちなだけなのである。

知的生命体らしく、社会とか常識がわかっている人はそれに順応してるから変な部分が見えにくくなってるだけだと思う。

 

僕は若干常識がなく、ほぼ裸でうろついているようなものなので、わかりやすい。

でも知的生命体らしい、社会とか常識がわかっている人はちゃんと服を着てうろついている。

だから見えにくい。見えにくいんだけど結局は変。そんな感じ。

 

とはいえまぁ当たり前なことで、そもそも常識ってもんがフワフワしてるので尺度にはなりえない。

だから常識に照らし合わせて誰々が変とかそうでないとか、なんかアホらしい。

みんな変。

みんな違って、みんないい。

とは言わない。

みんな違って、みんな違う。

トートロジーで〆る2021.01.28 AM1:01

 

1935年『虚栄の市』

昨日、23歳になった。僕は大晦日が誕生日なのだ。大変な時期に産まれてしまったものだ。

 

晦日に誕生日だと、人一倍人生を振り返る。

社会がどうなったという振り返りと、○○歳の自分がどうだったかの振り返りをする。

 

そして今年思ったことは、

REALが見えてきたな〜って。

 

この歳になると、周囲の人間の変化が凄まじい。

大学卒業して超一流企業で勤めている人もいれば、親になっている人もいて、夢を果たして芸能界で活躍している人もいて、はたまたねずみ講にハマっている人もいて、亡くなってしまった人もいてetc...

とにかく、だいぶ価値観も成熟した結果、個人が思い思いのくらしをし始めるのがこのへんの年齢なんやなぁと。

 

これがREALだな〜と今の僕は思うし、このREALに触れ続けていたい。

インターネットだけだとなんとなく色がつかない。

別にインターネットのみでのコミュニケーションの取り方は嫌いじゃないし、むしろ楽で好きなんだけど、REALを実感してしまったので、もっと塗り絵を楽しんでいきたい気持ちが強くなった。

2021年は色濃い1年にしていきたいな。

REALがゲシュタルト崩壊してしまったよ。

 

合法投棄

ネットの海に弱音を捨てる。

僕はよく投棄する。

 

自分が生きている世界がよくわからなくなっている。

いや、政治とか経済がよくわからないとか、そういうことではない。

文字通りどこを生きているのかわからない。

 

ここ1,2年くらい死に囚われすぎている。

1日のどこかで死について何かしらを考える。

それが幸か不幸か自分を強く縛りつけるようになった。

 

何かがあると「人生一度きりなんだから」と考えてしまう。

まぁこれは基本的にいい方向に作用するのだが、悪い方向に作用することもたまにある。

 

物事を死と関連付けてしまう。

そして死って何にでも関連づけられる。

 

それによって身近なものを大事にできなくなっている。

「死」という概念が先行してしまうから、身近なものを大切にする方に目がいかない。

 

食前酒でスピリタス飲まされてる気分。

どうしても強烈なものに引っ張られちゃう。本来大事にしなければならないところが霞んでしまう。

 

「死」に何事も関連づけをしていると、意思が存在するレイヤーが変わる。

もっと身近なものを大事にして人間社会で生きていきたいけれど、今は自分の精神世界に閉じこもっているような感覚がある。

 

それで、自分がどこを生きているのかがわからないという現象が起きている。

 

まぁどうすれば良さそうかはなんとなくわかる。

今を生きることにもっとフォーカスするとか、ダブルワークでもして忙しくして物理的に悩む時間を無くすとかね。

 

でもこの気持ちと格闘したい欲求もある。

今、精神的にはしんどいし、それによって周りの大切な人たちにもかなり迷惑をかけている。

その自覚はあるけど戦いたいから、周りの大切な人、ゴメン。

 

なんとなく吐き出したくなったので、ネットの海に投棄しようと思った次第でございまする。

 

 

 

たまごアイス~チョコレート&バニラ味~

今日も気怠い。

なんだかここ数日体調が優れない。

気力も湧かない。沢山寝てしまう。

数学の勉強はなんとか続けられている。

でもすぐに疲れてしまう。

最近は1時間おきに20分くらい休憩しないとダメだ。

集中が切れる。焦る。

 

最近は大学微積の勉強も始めた。今はε-N論法とか、その辺だ。

厳密性に「これが大学数学か~」となる。尤も、厳密性は大学数学以外にも求められるものだが。

 

あと自分は生き急いでいるようにも感じる。

色々あって僕は大学5年生になった。4年で卒業できなかったのだ。

そう、色々あったので僕は焦っている。

 

「他人と比べない、人は生きているだけで価値があるもので、自分の人生を生きれば良い」

 

僕はこう自分に言い聞かせている。

しかしたまに思う。それはそう自分が考えたいだけなのではないかと

現に自分は何かに追われているように過ごしている。

常になにかしらの挑戦をしている。

意識が高くて良いじゃんと思う人もいるかもしれない。

でもそれは違う。

自分の理想に到底及んでいない自分を常に意識してしまうから

その埋め合わせをしようとしているだけだ。

じゃあなぜ埋め合わせをしようとするのかというと

僕は見えない何かと自分を比較しているからではないか。

何が他人と比べないだ。アホらしくなる。

ただ自分は現実の人間と自分を比べたりはしない。

もっと厄介な見えない何かと比べているのかもしれない。

 

そうして整合性を保っているつもりなんだ。

歪だ。保つとか保てないとかじゃない。歪なまま現状維持しているだけだ。

 

ダブルスタンダードに苦しめられながら、僕は今日も回し車の上を走る。

回し車が壊れるのか、僕が壊れるのか、どっちかしないと僕はたぶん走り続ける。